ラン・ランの帰還

ついに先週の金曜日に一年以上の不在から戻ってきたラン・ランのコンサート(タングルウッドにて。ネルソンス指揮ボストン響との共演)について、ニューヨーク・タイムズ紙は弾く前(「なぜクラシック音楽にとってラン・ランの帰還は大きな話題なのか」)と、弾いてから(「クラシック音楽のスーパースターが静かに帰還」)と二度記事を掲載している。

やっぱりラン・ランはアメリカでは無視できない存在のようですね。アメリカの芸術や文化はドネーション(寄付)で成り立っていることは知られていますが、シーズンオープニングコンサートなんかはわざわざ高額のチケット料金とかが設定されていて、それを買うことがまた寄付行為の一つなんだったりもするそうです。しかしクラシック音楽に寄付をしてくれる人の数が減っているのだとか。

上のニューヨーク・タイムズ紙によりますと、人々の関心を引くアーティストが今では数えるほどしかいないそうです。そこにラン・ランはいる、というのです。ニューヨーク・タイムズ紙によれば、ヨーヨー・マ、イツァーク・パールマン、ジョシュア・ベル、ルネ・フレミング、そしてラン・ランなのだそうです。

うむなるほど。ユジャ・ワンはここには入ってこないのか。ラン・ランがここまでアメリカ人に受けがいいのはなぜか。派手な演奏をするからでしょうか。演奏中の恍惚としたジェスチャーもアメリカ人に受けるのでしょうか。あれは個人的には、見ていて気持ちのいいものではないですが、それは日本人でナイーブな私がそう思うだけであって、アメリカでは熱狂的に迎え入れられるのでしょう。

アメリカはヒーローが好き、愛が好き。わかりやすいのが大好き。そういう演奏家であるラン・ランに熱い視線が注がれ、大金が落とされるとしたら、オーケストラや主催者としては万々歳なわけです。お金が回らないことにはいくら芸術至上主義を唱えても意味がないですからね。

ちなみにラン・ランは今回チャイコフスキーの一番を予定していたがモーツァルトのハ短調に変更している。これは左手を痛めたラン・ランだからしょうがないね、右手のテクニックだけで演奏できる曲、つまり左手は伴奏だから技術的には腕をかばうのにいい選曲だね、みたいなことが書かれていて、なるほどそういう見方もあるなとなんだか感心してしまいました。

公演はつつがなく行われ、聴衆は興奮してスタンディングオベーションだったそうです。モーツァルトでスタンディングオベーションっていうのもなかなか考えづらいですが、演奏の善し悪しよりも、これは英雄の帰還を見届けた満足感に基づくものでしょう。